『怪談』がつなぐ、日本とアイルランド 小泉凡
地球半周を超える片道切符の旅をし、39歳で日本の土を踏んだパトリック・ラフカディオ・ハーン(1850-1904)。彼は、最初に住んだ西日本の城下町松江で、太陽や月に柏手を打ち、盆に帰還した祖霊を大切に祀る、信心深い素朴な人々の姿に出会いました。また同地に伝承される豊富な超自然の物語に魅了され、日本の<見えざるもの>の文化に興味と共感を抱いたのです。
ハーンはその後14年間の日本での生活の中で、100話ほどの怪談を聞き書きや文献から採集し、文学としての魂を吹き込み、再話文学作品として発表していきます。ハーンの没年である1904年に出版された『怪談』には、17話の超自然をテーマとする再話作品やエッセーが収録されました。同書は、ハーンの再話文学の最高峰、代表作と評価され、今日まで世界の多く言語に翻訳され、読み継がれています。ハーンは、怪談は単なるホラーストーリーではなく、人々の哀しみ、愛情、生死、魂についての考え方など、日本の民衆文化を伝える有益な速記録だと考えていたのでしょう。
彼の超自然の物語への関心のきっかけは、アイルランド時代に遡ることができます。コナハト出身の乳母、キャサリン・コステロが幼いハーンに怪談や妖精譚を語り、そこに至福の時間を見出していたのです。だからゴーストリー・アイルランドというべき文化環境に育まれたハーンが、アニミズム信仰が豊かに残るゴーストリー・ジャパンの文化に共振したことは、すごく必然だと思うのです。
ハーンは東京帝国大学の講義の中で、超自然の文学には一面の真理があると言い(「小説における超自然的なものの価値」)、妖精、妖怪などの霊的存在が馬鹿げたものだと考えるのは、想像力に欠け潤いのない実利的な人だと述べています(「妖精文学」)。「一面の真理」とは、超自然の世界が人間に問いかける大切なメッセージのようなものでしょう。友人のチェンバレンに宛てた手紙には「人生に生きる目的を与えてくれたのはゴースト」(1893年12月14日付)だと書いています。1894年の熊本での講演「極東の将来」では、「自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共存できて、わずかなものに満足できる者。宇宙の法則とはこのようなものである」と聴衆に語りかけます。ハーンの怪談観の根底には、人間は自然への畏怖の念を抱いて生きるべきだという思考があるのです。その謙虚な心が、異界への畏怖を生み、人間中心主義を脱する秘訣だと考えていたようです。
東大の講義で超自然の中の真理に対する人々の関心は、将来、科学万能の時代が来ても変わらないだろうと予言したハーンですが、現代はまさにこの予言通りの時代ではないでしょうか。八雲の怪談作品は、2018年にはアイルランド語やカタルーニャ語に翻訳されていますし、ミラノではハーンの怪談作品をテーマとする展示会が開催されました。松江では、私のダブリン・ゴーストバスの乗車体験をヒントに生まれた「松江ゴーストツアー」が人気の観光プランとして定着しています。
私は、文学は読者にとっての鑑賞の対象、研究者にとっての研究の対象、ファンにとっての顕彰の対象という枠組みを超えて、さまざまな社会的活用ができると考えています。ですから、このたび、アイルランドを拠点とするアーティストの方々と共同で、松江・焼津の記念館などで『怪談』展が実現することをとても嬉しく思っています。この斬新なアート展がきっとハーンの作品を新たな地平に導き、日本とアイルランドの文化芸術交流の促進に寄与することを確信しています。
慢性的危機の時代である現代を生き延びるためにも、怪談が何らかのヒントを与えてくれるかもしれません。怪談は異界から人間世界を照射し、人間の生き方の方向性を示唆する側面もそなえていると思うからです。
小泉凡 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)曽孫、小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授。ラフカディオ・ハーンに関する主要著作として、『民俗学者・小泉八雲』(1995年)、『怪談四代記―八雲のいたずら』(2014年)、『小泉八雲の怪談づくし』(2021年)などがある。2017年、日本とアイルランドの友好親善貢献で外務大臣表彰、また2022年度全日本学士会アカデミア賞を受賞。